 |
インドネシアのバリ島2 |
 |
|
こうして独立へと至った。 初代インドネシア・スカルノ大統領。日本でも夫人が有名だろう。 インドネシアの植民地時代から民族主義運動、独立運動におおきな功績を残したインドネシア共和国初代大統領。雄弁な演説とカリスマ性で民衆意識を鼓舞した。 太平洋戦争が始まり日本がオランダ領東インドを占領すると日本軍はオランダに囚われていたスカルノやハッタらを解放し、軍政当局は民生の安定のために知名度の高いスカルノやハッタらの民族主義者の協力を要請した日本の敗戦から2日後の1945年8月17日、スカルノとハッタの2人が「インドネシア国民の名において」インドネシアの独立を宣言。 しかし、これを認めないオランダは軍を派遣し、同地の再植民地化に乗り出した。戦局はオランダ優位に進むかに思われたが、オランダはインドネシアの武装勢力(正規軍・非正規軍を問わず)とのゲリラ戦に苦しめられ、また、インドネシアを再植民地化しようとするオランダへの国際的な非難も高まったため、外交交渉による紛争の解決がはかられた。 オランダから独立して前途多難だった。対オランダ独立戦争で権力は地方などに分散、 政治運営は困難を極めた。 オランダからの独立時、採用された新憲法(1950年憲法)では、大統領に強い権力は付与されておらず、困難な国政運営に対して有効な手立てを打てない政党政治家たちへの不信、不満を強めていった。 政局の混乱を収拾するべくして行なわれた同国初の総選挙、そしてその結果を受けて実施された議院内閣制によっても、事態は打開されなかった。インドネシアは、民族の統一よりも、国家分裂の危機へと向かっていた 1959年7月5日、スカルノは議会を解散し、彼の行動を制約していた1950年憲法を停止して、強大な大統領権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。 スカルノの「指導される民主主義」体制の成立である。 以上が、1965年に起こった9月30日直前の状況である。急進左派軍人による国軍首脳部暗殺というクーデター、それに迅速に対応したスハルトを中心とする反クーデタ、そして、その後の国内での共産主義者狩り。 この事件後、国内で共産主義勢力が一掃されたことにより、バランサーとしてのスカルノの求心力は失われ、東南アジアで最大規模を誇ったインドネシア共産党が壊滅したことはアメリカなど西側諸国にも歓迎されることになった。 共産主義への接近の責任を追及されたスカルノは、大統領の権限を奪われ、1966年3月には大統領職を停止され、実権を失った。 スカルノから実権を奪って1968年3月27日に正式に第2代大統領に就任したスハルト「新秩序」体制のもとで、東南アジアにおける反共政権として西側諸国との関係改善、国際社会への復帰を果たしていく。 一方のスカルノは軟禁状態におかれたまま、1970年6月21日、ジャカルタで死去した。 1968年、第二代大統領スハルトは親米・親マレーシアに外交の方針の転換し、インドネシアを国連に復帰させたことは欧米諸国にも歓迎された。 1967年ASEANを創設し、同事務局をジャカルタに誘致するなど、近隣諸国との関係強化に努めた。協力な政治基盤を維持しながら、産油国としての地位を利用し急速な経済発展が進んだ。 しかし、親族や腹心の部下に対する極端な利権の付与については、「KKN」(汚職・癒着・縁故主義)というスローガンが生み出されるなど、政権の腐敗が問題視された。 また、国内の独立運動に対する弾圧、民主化運動活動家の拉致・拷問、各地で明るみに出る虐殺事件、体制に批判的なマスコミに対する弾圧などの人権侵害に対しては、海外からも強い批判を招いた。 また日本政府が長年にわたりインドネシアに対して行ったODAがスハルト一族の利権配分に利用されたのではないかという疑惑が持ち上がった アジア通貨危機が発生しルピアの大幅な切り下げなど住民の生活に大きな打撃を与えた。 ここにいたって国民の不満は頂点に達した。首都ジャカルタでは大学生の反政府デモが一般市民をも巻き込んで街頭を埋め尽くし、その一部は暴徒化した。デモは地方都市にまで波及し、政府内部にもスハルトへの辞任要求の声が高まった。 これらの圧力に屈する形で、5月21日、スハルトは大統領辞任を宣言、副大統領(当時)のハビビに職を譲った この後ハビビ、ワヒド、メガワティ、ユドヨノと変わっていく。 いずれも、たいした効果、政策はできなかった。不本意な形で辞任または罷免に至っている。 建国約70年で6人の大統領、スハルトの任期の長さ、ある意味正常ではない。 インドネシア共和国独立後1950年バリも一員になった。 バリ島はインドネシア随一の国際的観光都市と位置づけられ、外貨獲得を目的とした積極的な観光客の誘致政策がとられている。 |
|